受験生マイページ ログイン
コラム

ラグビー日下太平選手 学校から世界へインタビュー③

「学校から世界へ」第8回のアスリートは、プロラグビー選手の日下太平(くさか・たいへい)選手です。

留学時代(3/4)

「学校から世界へ」第8回のアスリートは、プロラグビー選手の日下太平(くさか・たいへい)選手です。小中一貫の小学校に入学しましたが、ラグビーのおもしろさに目覚めて私立中学校を受験。中高一貫校でしたが、さらなる高みを目指してラグビーの本場、ニュージーランドの高校へ。そこで頭角を現し、U18日本代表入り。18歳でトップリーグの雄、神戸製鋼コベルコスティーラーズに入団と、道が拓けました。ラグビー界では異例の経歴で「W杯出場」という目標に立ち向かう日下選手に、これまでのラグビー人生を振り返っていただきました。
【取材日:2020年11月2日】(取材・構成:金子裕美 写真提供:日本ラグビーフットボール協会・神戸製鋼コベルコスティーラーズ・関東学院六浦中学校)

日下太平選手のプロフィール

1999年11月8日、神奈川県生まれ(21歳)。身長181cm、体重88kg。ポジションはCTB(センター)。ラグビーを始めたのは3歳の時。鎌倉ラグビースクールで基礎を学んだ。小中一貫の横浜国立大学教育学部附属横浜小学校に通っていたため、内部進学して、同スクールでラグビーを続ける道もあったが、「シニア日本代表」という夢の実現に向けて中学受験を選択。人工芝のグラウンドをもつ関東学院六浦中学校に入学し、1年次から活躍した。3年次はキャプテンとしてチームをまとめ、目標としていた神奈川県大会で初優勝。東日本大会でも4位と健闘した。それが自信となって、中3の2月にニュージーランドのクライストチャーチ・ボーイズ・ハイスクールに留学。当初は1年間の予定で関東学院六浦高校に籍を残していたが、ほとんどの生徒がラグビーに取り組む同校で精進する道を選択し、カンタベリーU18(州代表)に選ばれるまでに成長した。高校を卒業後は、プロ選手として神戸製鋼コベルコスティーラーズに入団。ウェイン・スミス総監督のもとでセンターだけでなく、スタンドオフ(SO:攻撃を組み立てる、司令塔の役割を担う)にも挑戦している。
日本代表としての経歴は、2017年U18ヨーロッパチャンピオンズシップ(フランス)で銅メダル。2018年からは3年連続でジュニア・ジャパン代表に選出され、パシフィック・チャレンジ(フィジー)に出場。2020年大会は金メダルに輝いた。目標は、シニア日本代表としてW杯で活躍すること。その道筋を自ら見極めながら、着実に歩みを進めている。

※神戸製鋼をはじめ16チームが優勝を競う2020-21トップリーグは2月20日(土)に開幕。4月11日(日)までリーグ戦を行い、その後、プレーオフを経て、5月23日(日)に優勝チームが決まる予定。神戸製鋼は2018-19シーズンに優勝。19-20シーズンはコロナ禍のため大会が途中で中止に。今シーズンは再び優勝に向けて熱のこもった戦いを繰り広げている。

留学時代

--中学校を卒業してからニュージーランドへ?

日下選手 向こうは2月から学校が始まるので、中3の2月に行きました。最初は1年間、やってみる、ということで行ったので、関東学院六浦高校にも籍を残していました。でも、自分としては向こうで成績を残したいという気持ちが強かったので、結局、3年間、クライストチャーチ・ボーイズ・ハイスクールで過ごしました。

--関東学院六浦高校ラグビー部では、現在、そのクライストチャーチ・ボーイズ・ハイスクールと提携して、ラグビー短期留学を実施していますよね。

日下選手 僕がきっかけかどうかはわかりませんが、架け橋というか、目に見える形で何かを残すことができたのでよかったと思っています。

--クライストチャーチ・ボーイズ・ハイスクールといえば、ニュージーランドのなかでもオールブラックスに多数の選手を輩出している名門ですよね。想像を超える挑戦だったと思いますが、恐くなかったですか。

日下選手 僕には根拠のない自信みたいなものがあって、なぜか、自分は絶対にできると思っているんですよね。(ニュージーランド留学については)家族のバックアップはもちろん学校が理解して送り出してくれたことも大きかったです。帰って来られる場所を作ってくれた、というか、短期休みに日本に帰って来た時に練習に参加させてくれるなど、いつもあたたかく迎え入れてくれたので嬉しかったですし、自分のためにもなったと思います。
そういうことって全部の学校が理解してくれることではないと思うんですよ。自分から学校を出て行った奴に施設を使わせるなんて、と思うところもあるかもしれないじゃないですか。関東学院六浦の先生方はそうではなくて、チームメイトたちもそうではなくて、「いつでも帰っておいで」という感じでいてくれたので、すごく嬉しかったです。

--クライストチャーチ・ボーイズ・ハイスクールは世界中から留学生が集まってくる、という感じなんですか。

日下選手 僕がいた時はアルゼンチンやチリ、南アフリカからも来ていましたね。

--相当、競争が激しかったのでは?

日下選手 男子校なので、簡単に言えば生徒の80〜90%がラグビーをやるんです。だから競争は激しかったですね。ラグビーに夢中で、小・中学生の時よりも断然、時間が経つのが早かったです。

--そういう環境のなかで頭角を表すために、何から取り組みましたか。

日下選手 僕はそれまでウエイトトレーニングをしたことがなかったんですね。ニュージーランドに行くとみんな体が大きくて、パワーがあるので、まずは力負けしない体をつくらなければ、と思い、ウエイトトレーニングを始めました。

--言葉は問題なかったですか。

日下選手 中学時代の英語は平均値くらいだったんですけど、それでは通用しなくて、最初は殻に閉じこもってました。自然と慣れるもので、まず耳で聞き取れるようになって、話せるようになっていきました。ネイティブの英語になるまでに1年くらいかかりました。もう少し遅かったら、(ネイティブの英語を習得するのは)難しかったかもしれないです。

--日本の部活動とは違うのですか。

日下選手 違いますね。校内に22チームくらいあって、実力別に振り分けられます。各チームで活動して、シーズン前のプレシーズンに行われるゲームで良いプレーをした選手、目立った活躍をした選手がピックアップされて、シーズンを戦うという感じなので気を抜くことができません。僕は、1年目はU16のAチームで試合に出ていました。2年目(高2)からはアンダーではなく、1軍、2軍、3軍となり、一応1軍のトライアウトは受けたんですけど受からなくて、3軍でプレーしました。

--それは悔しかったですね。

日下選手 めちゃめちゃ悔しかったです。やっぱり体が足りない。作り直さなければいけない、と思い、ウエイトトレーニングに励みました。その結果、3年目(高3)は1軍に入れました。その頃には、体負けしている、という感じはまったくなくて、自信をもつことができました。その後、州の代表のようなものに選んでもらって、さらに自信がつきました。

--ラグビー漬けの3年間を送ったかいがありましたね。

日下選手 僕の学校は、週3日くらいしかチーム練習をしないんです。チーム練習をする時間以外は、自分に足りないところを考えて個別に練習できるので、それがよかったんですよね。1年中、ラグビーをやるわけではなく、シーズンオフには違う競技をやります。日本とはずいぶん違う環境でしたけど、うまく対応して体は大きくなったし、自分の頭で考え、判断してプレーできるようになりました。

--高校を卒業後、日本に戻ってプロ選手になりましたが、そういう進路を思い描いていたのですか。

日下選手 ニュージーランドの大学に進学したいと思っていました。日本の大学も選択肢の1つではあったんですけど、ニュージーランドがすごく好きだったので、ここでプロ選手になれればベストだなと考えていました。

--ニュージーランドのどんなところが好きなんですか。

日下選手 自然が好きなんです。ニュージーランドは自然がすごくきれいですし、ゆったりしていてやさしい国民性もすごく好きでした。

--では、なぜ日本へ?

日下選手  たまたま知人の紹介でついてくれたエージェントの方が「こういう選手がいるよ」と、神戸製鋼に僕のことを話してくれたんです。それで何度か練習に参加させてもらってチームから声をかけてもらいました。

伝統のあるチームである、ということはもちろん、エージェントの方から「神戸製鋼にダン・カーター(元ニュージーランド代表SO)とウェイン・スミス(総監督)が来るんだよ」と聞いて、自分のラグビー人生で、ダン・カーターと同じチームにいられるなんて、どれだけの確率なんだろう。どれだけすごいことなんだろう、と舞い上がりました。「それで決めた」と言っても間違いではないくらいです。日本代表や海外の試合を観ていて、すごい選手だな、と思っていたからです。ダン・カーターやウェイン・スミスと同期入団できたことは、本当に奇跡的でした。

--ダン・カーター選手はクライストチャーチ・ボーイズ・ハイスクール出身なんですよね。

日下選手 そう、同じ高校の先輩なんです。毎年、ライバル校との試合があって、その試合で十数年間、負けてなかったんですけど、僕らの代は久しぶりに負けたんですね。「わー、やべー。OBの人に何を言われるかな…」って、どんよりした雰囲気になったんですけど、「あれ? 十数年前に負けたのは誰の代なんだろう」と思って調べてみたら、ダン・カーターの代だったんです(笑)。

--その話はしましたか。

日下選手 しました。留学していなければ、外国人選手や監督、コーチと、通訳を通さずに、直にコミュニケーションを取ることは難しかったと思うので、そういう意味でも貴重な3年間でした。