コラム

Thinking Experiments著者(1/2)日本語版

日本語翻訳:GLICC 代表 鈴木裕之

『Thinking Experiments』の著者であるAlexander Dutson先生とJames Hill先生にお話しを伺いました。

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「Thinking Experiments」はどんな読者を想定して書かれたのでしょうか。また、どのようなことに役立つのでしょうか。

ジェームズ
この本の主な目的は、哲学のことが知りたい先生方に、哲学とはどういうもので、なぜそれが重要なのか、またどんなふうにそれを教えたらよいのかといった手がかりを与えることです。単に教える内容ということだけではなく、教える方法について理解できるようになります。
生徒にとってもいくつかの有効な使い方があります。その一つは、哲学授業で行われたディスカッションを継続したり、深めたりすることです。私はよく、授業で面白いと感じたことを家に持ち帰って、お父さんやお母さんを巻き込んでいくように生徒をけしかけているのですが、この本はそういう時に大いに役立つはずです。

また、自分が問いを設定する先生になったと想像して、哲学授業のために自分自身の考えを創り出してみることも一つです。こういうふうに、生徒と先生の境界線をなくすことも哲学の一つの役割だと考えるのが私は好きなのです。
さらに言えば、哲学的なエッセイを書くためにこの本を使うこともできると思います。

アレックス
日常的な読み物というよりは、教育の場で使われることを前提にした本です。しかし、教育現場以外でも、気の利いた会話を始めるきっかけとして使えると思います。
グループディスカッションにのめり込むようになる方法が含まれていて、この本の中の素材をフレームワークとして利用すれば、これまでグループディスカッションをしたことがない人や、満足のいく成果が得られなかった人も、焦点を絞ったディスカッションを生み出せるよう基本的なことから書かれています。生徒の興味を引くコンテンツと、それを効果的に伝える方法が書かれているのです。
また、哲学授業が驚きや予測不能なものになり得る点を私たちはこの本で強調しています。哲学授業は生徒主体で進んでいき、正当な推論や根拠が導くところならどこまでもそれを追いかけ、そのプロセスを楽しむという原則に基づいています。

ジェームズ
この本が会話のきっかけとして使えるという考えには私も同感です。また、授業が生徒にとって驚きとなるようにデザインするのも、それが生徒の好奇心を広げ、より深く考えたいと彼らを導くからなのです。哲学授業は、生徒を「惹きつけ」て、トピックに深く入り込む動機を一人一人に与えるようにデザインされています。

この本には、哲学的な問いを探究する授業案がたくさん書かれていますが、生徒はこういった問いを考えることで何を身につけるのでしょうか?

アレックス
考えることを楽しむ機会が得られます。このことは些細なことに聞こえるかもしれませんが、実際には非常に重要なことです。生徒が哲学的な問いを発するとき、彼らは自らの経験をその問いに関連付けながら答えを見つけようとしています。こういう機会は意外と少ないものです。たいてい、生徒は教科内容を理解できるように、試験に向けた反復学習を強いられています。考えるための余裕が持てること、少し立ち止まって、確かだといえるものは何なのか、またそれを確かだと考えているのはなぜなのかを検討することは楽しいことであり、哲学からそういうことが得られればそれで十分だと言えます。ただし、さらに言うならば、哲学することによって、生徒は情報への反応や対応の仕方といった、思考のツールを身につけます。仮説的に考えるようになるのも一つです。
たとえば、誰かが「捕鯨は日本の伝統なのだからやめるべきではない」と言ったとしましょう。哲学を学んできた生徒は、伝統は時代とともに変わり得るのか、あるいは変わるべきなのかと考え始めるかもしれません。このような思考方法が反射的なものとして身につきます。このように哲学は、自分の考えを探求し、さらに深く考えるのに役立つのです。

ジェームズ
哲学では、楽しみながらしかも同時に考える能力も得られます。生徒はこの二つが一緒にできるのだと分かって驚くのですが、私はそのことにハッとさせられます。自由に楽しむか、それとも真面目に勉強するかと分けて考えるのがふつうですよね。両方同時に獲得するというのは難しいと思われるでしょう。しかし哲学はそれを可能にします。私たちが教える哲学は、社会と知性を両方ともに学ぶものです。共に考えることを楽しむようになるのです。哲学を通して、生産的であるような学びに加えて、一緒に学ぶことがどれほど楽しいことかが分かるようになります。このことは、グループの中に座っているときに受け身で学ぶのは難しいという事実と関係があります。哲学授業が主体的にかつ協働して学ぶというのは必然なのです。

アレックス
そうですね。教育の場のなんと多くが殻の中に閉ざされていることでしょうか。生徒たちは一緒に教室にいるけど、実際は孤独な存在になっています。最近それは変わりつつありますが、哲学はその前向きな変化に貢献する一つの方法です。私にとって興味深いのは、日本ではこういったグループというのが非常に重要だと考えられていることです。したがって、グループ学習、ひいては哲学的思索もまた非常に尊重されるのではないかと期待されるのです。

「グループ学習」と言っても、西洋と日本ではそのスタイルに違いはありませんか。哲学授業におけるグループ学習のポイントは何でしょうか?日本でグループ学習と言う場合、ともすると調和に重点が置かれることがあるのではないかと思いますが、哲学授業ではどうでしょうか。

ジェームズ
生徒同士が哲学的な会話をするとき、彼らは異なる答えや意見に直面するでしょう。このような状況にさらされることで、複数の視点が存在するということを理解します。それは彼らが彼らの第一印象を超えて行く助けとなります。哲学授業を始めてまだ間がないころは、彼らはしばしば複数の視点を想像する方法が分からないか、または複数の視点を念頭に置くだけの発達した力を持っていません。そういう際には、グループで行うものとしてまずは彼らにそれを提示し、異なった見方を生み出すのです。やがて彼らは自分たちの中で対話の方法を学びます。彼らは哲学的議論を内面化するのです。ここが、グループ内での意見の調和という考え方とは異なる点です。

アレックス
もう一つ強調したいのは、一緒に考えていくことで生徒たちがお互いの前で間違いをすることを学べる点です。誰もが間違いを犯すし、不明瞭なことやまったく意味をなさないことを言ったりもします。でも皆がそのことを認知すると、お互いを信頼し始め、間違いを犯すことに対して開かれていくのです。この開放性には一種の調和があると言えます。人は他の人々とグループを構成するでしょう。そして間違ったことを言うかもしれません。しかし、あなたは、みんながあなたに耳を傾けそして寛容になってくれることを理解しています。つまり、生徒は他の人々やその意見を脅威と見なすのをやめて、洞察や刺激の源泉と見なすようになります。

『Thinking Experiments』には、「科学はいつか終わるのでしょうか」と「不平等は悪いことですか?」といった問いがあります。生徒がこういう質問に答えを出すことは可能ですか?また正しい答えというのはありますか?

アレックス
一つ目の「科学は終わりますか?」は、知と未来についての問いです。答えを知るのが難しいことは明らかですね。もう一つの問題は倫理的な問い、すなわち善悪についての問いです。どちらも複数の答えがあり得る問いです。生徒が一つの答えを見つけて、それでディスカッションが終わるわけではありません。
2つ目の問いについて少し詳しく話すと、ある生徒は「人によって能力は異なるし、働き者だったり才能が備わっていたりする。あるいはまた家庭環境が恵まれていることも現実としてあるのだから、不平等は自然なことであって悪いことではない」と言うかもしれません。別の生徒は、「1日2、3ドルで暮らしている人がいる一方で、使いきれないほど多くのお金を持っている人がいるのは本当に酷いことだ」と考えるかもしれません。どちらの答えも一見したところもっともらしい。しかし、私たちは例えばこう尋ねることでさらに先に進むことができます。“もし人々が異なる才能やスキルを持っているのなら、それから生じる不平等を制限すべきだろうか”と。私たちは何が正しいかということだけではなく、何をするべきかということについて話し始めることができるのです。

ジェームズ
こういったことについて尋ねられたときに私が最初に生徒に言うのは、「たとえ唯一の正しい答えがないとしても、間違った答えはたくさんあるよ」ということです。あるいは答えとしては正しいけれど理由がよくないと思われる答えもあります。生徒の目標は、正しい答えを持つことではありません。少なくとも温度計が正しい温度を示すというあり方ではありません。温度計はたしかにその都度正しい温度を指しているかもしれませんが、世界で何が起こっているのかを理解してはいません。この温度計の例は、信念形成のプロセス、つまり私たちが考える方法、および思考能力をどのように向上させることができるかについて、哲学がいかに関心を持っているかを示しています。

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