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名門校と単なる進学校は何が違うのか?(1/2)

名門校と単なる進学校は何が違うのか?
教育ジャーナリスト おおたとしまさ

いい味噌や醤油を造る昔ながらの蔵元には、「家付き酵母」が棲み着いているという。 長い年月をかけそこに棲み着き、味噌や醤油に、そこでしか再現できない独特の「風味」を加える。同じ材料、同じ製法で造っても、他の蔵元では同じ味は出せないのだそうだ。

学校にも似たところがある。生徒は毎年入れ替わるし、当然一人ひとり違うのだが、それでも同じ学校の生徒には共通する「らしさ」が宿る。 特に個性的な「らしさ」を醸し出す学校を、人々は「名門校」と呼ぶ。個性的な「らしさ」を身に付けた者同士は、お互いに「匂い」で分かる。ちょっと話してみるだけで、同じ学校の出身ではないかと直感的に感じるのだ。ただし、その「らしさ」とは何なのか、どうやってその「らしさ」が身に付くのかといわれると、「何となく」以外に答えがない。 しかし名門校のブレない教育力を目の当たりにするとやはり、今この世の中に欠けている何かがそこにある気がしてならない。それが単なる進学校と名門校を分けるものであり、名門校が名門校たる所以に当たるのではないだろうか。それは何なのか。

私は、名門校と呼ばれるような学校に共通する特徴としてまず、「自由」「ノブレス・オブリージュ」「反骨精神」三つのキーワードを挙げたい。

「自由」こそ、学ぶ者の最終目標であり、同時に最高の教材である

ほぼ100%の学校が「自由」を標榜する。規律の厳しさで知られる学校であっても。彼らが言う自由とは、規律が緩いことではない。「自ら決めた方向へ向かって自らの力で歩む自由」とでも言えばいいだろうか。そのためには時に苦難に耐え、規律で自分を縛ることも必要であり、それとて学ぶ者の自由意思に基づくのだという考え方がある。

これこそまさにリベラル・アーツの基礎概念ではないだろうか。人間には、自由になるために学ぶ本能があるのだと私は思う。時には苦痛を感じつつも学ぶことで、実は人間は自由になっていく。自らの生き方を決定し、遂行する力を身に付けていくのだ。 だからほとんどの名門校で教養主義を謳っているのだろう。何か特定の目的のためにすぐに使えるスキルを身に付けることを目的とするのではなく、全人格的な能力の増幅、視野の拡大、思考の深化を教育の目標に掲げているのだ。 教養は、単なる博識とは違う。例えば樹齢数十年、数百年という大木を目の前にした時。瞬時にその大木の生い立ちからの物語をイメージできるかどうか。その大木がどんなものを見てきたのかを想像できるか、謙虚な気持ちでその偉大さを敬うことができるか。 物事の一瞬・一面だけを見るのではなく、物事の全体を見ると同時に細部までを見ることができ、かつ、時間的文脈も捉えることができるかどうか。「鳥の目、虫の目、魚の目」のそれぞれを働かせることができるかどうか。これが教養と呼ばれるものの正体だろう。

知識はもちろん、あらゆる経験がその人の無意識に内在化したもの。知識は時とともに忘れていくし、技術は年とともに衰えるかもしれない。しかし、「そういう世界」があることを感じた感覚の記憶は消えない。その蓄積が、鳥の目、虫の目、魚の目を開かせる。 一見無駄に見えるものの中に価値を探せるようになる。失敗や挫折の中にも教訓を見出せるようになる。成功の中にも反省点を感じられるようになる。「世の中のあらゆるものに価値がある」と分かってくる。「目」が良くなれば良くなるほど、世の中全体が豊かに見えるようになる。 一つには、名門校とはそういう人を育てる学校だと言えると私は思う。個人としての能力を引き出すという側面において。

「自由」とは、何事も他人のせいにはできないということ。それが大変心地いい。常に自由でいると、人生における瞬間瞬間に、「今、自分は他の誰でもない自分の人生を生きている」という緊張感と満足感を味わえる。だから人生が何倍にも濃密で刺激的なものとなる。 ただし、自由とは、魅力的かつ大変危険なものである。

人類は、「魅力的だが危険なもの」を使いこなしてきた。例えば火。最近ではインターネットや原発なども、「魅力的だが危険なもの」と言っていいだろう。そして、人類がこれまで手にしたものの中で最も「魅力的だが危険なもの」が「自由」であると私は思う。

だがしかし人類は、原発同様自由の取り扱い方を未だ体得していない。世界中で自由に基づく権利がぶつかり合い、諍いが絶えないことがその証左だ。「自由」こそ、学ぶ者の最終目標であり、同時に最高の教材である。表現の仕方は違えど、多くの名門校がそう訴えているように私は思う。 名門校では、未熟な生徒たちに実際に自由に触れさせてみる。生徒を疑って管理するのではなく、生徒を信じて任せてみるのが名門校に共通する姿勢だ。どこまで信じて任せてみるかという点においては各校の状況に応じて多少の差はある。しかし共通するのは「できるだけ自由に」「できるだけ信じる」という姿勢である。 多くの名門校で、長い歴史のどこかのタイミングで、生徒を信じ自由に振り切る瞬間がある。生徒もそれに応える。能力の高い教員と、能力の高い生徒がいることが前提ではあるのだが、そこに最高の目標であり教材である「自由」を与えると、生徒も教員も学校自体も勝手に伸びていくようになるのだ。そこで一皮むける学校は多い。これが名門校を名門校たらしめる一つの条件である気がする。

自分の能力を最大限に開発し社会に還元する義務がある

キーワードの二つめはノブレス・オブリージュ。「恵まれた者はその恵まれた環境を最大限に活かし、自分の能力を最大限に開発する義務がある。そうして得た大きな力を社会に還元することが、恵まれた者の使命である」という意味。もともとヨーロッパのエリートに伝わる思想だ。

ノブレス・オブリージュ。これを「思いやり」のような情緒的文脈だけで理解するのは間違っている。 例えば隣の国に飢えている人がいるからといって、その痛みに共感して一緒に飢えていてもしょうがない。恵まれた国の人はその恵まれた環境を活かして力を蓄え、その力で飢えている隣国を助けなければいけない。 いつか状況が逆になるかもしれない。いつどちらがそうなってもいいように、それぞれに余剰の力を蓄え、いざという時には助け合って生きていくのが、人類の生存戦略である。皆が自分のことだけを考えていても、他人に共感ばかりしていても、人類はとうの昔に滅亡していたはずだ。 そのことを肌身で実感し、いちいち損得勘定しなくても行動できるようになる反射神経こそがノブレス・オブリージュなのだろうと私は思う。

教育の範疇で極端な例えをすればこういうこと。「我が子の出来が多少悪くても、同世代の子供たちが優秀になって社会を豊かにしてくれれば、我が子が生き延び、幸せになる確率も上がる。だから我が子だけではなく、次世代を担う子供たちみんなにより良い教育環境を与えたい」。そう思えるかどうか。

教育の受益者は被教育者本人ではない。被教育者を含む共同体全体が、利益を受けるのである。

たくさん勉強をして勝ち組になるとか、いい学校に行って安定した人生を送るとか、そういう功利的な動機のみでみんなが教育を受けるとしたら、その社会は、教育によって得た力を競い合う弱肉強食社会になってしまう。もっと効率良く勝ち残りたいのなら極端な話、最も手っ取り早いのは、自分が努力するよりも他人の努力を邪魔することになる。 しかしそんなことをしていても社会は衰退するばかり。それでは勝ち組になったところで、自分自身も共倒れになるのは自明だ。 名門校と言われるような学校の建学の精神や教育理念のほとんどにはノブレス・オブリージュの薫りがある。それが単なる綺麗事ではなく、しっかりと生徒たちの心に染み込んでいく仕組みがある。 その仕組みが、「一番になれない環境」と「共同体意識」ではないかと私は思う。

名門校と言われるような学校に入ってくる生徒は皆優秀だ。地元の小学校や中学校では常に一番の成績で、クラスのリーダー的存在であった子供も多い。しかしひとたび名門校の教室に座れば、自分と同じような生徒がごろごろいる。「こいつにはかなわない」と思う生徒もいる。最初は多少ショックを受ける生徒もいるのかもしれない。 しかし早晩気付く。例えば数学の成績でまったくかなわなくても、理科では自分のほうが勝っているなど、人にはそれぞれに魅力があるということに。それぞれの魅力を持ち寄れば、自分たちは最強のチームになれるということに。そこに仲間に対する誇りと信頼、共同体意識が生まれる。お互いを認め合い、それぞれの自己肯定感が向上する。 このように、学校においては、教師から生徒へ無形価値が分け与えられるだけでなく、生徒同士でも頻繁に価値の共有化が行われる。教育によって得られた無形価値は、いくら分け与えても減らないから、共有すれば共有するほど学校という場に持ち寄られる価値の総量は増える。そこにいる生徒はより多くのものを受け取ることができる。

こう考えると、名門校とは、恵まれた者たちが恵まれた環境を活かして蓄えた力や価値を互いに持ち寄って、さらに高め合う場所であると言える。 究極的に言えば、そのために学校はあると私は思う。これが、ICT(情報通信技術)がどんなに発達しても学校という場はなくならないと、私が断言する理由でもある。 その過程で共同体意識も涵養される。良いものは独り占めするのではなく、皆で分け合ってこそ自分自身も含めた全体が豊かになれることに気付く。その意識は、最初は学校という共同体の中でのみ感じられる。しかし学校という枠組みを飛び出せば、それが社会全体にも通用するものであると徐々に分かる。それまで蓄えてきた力を、いよいよ社会に還元する時がやってくる。ノブレス・オブリージュ実践の瞬間だ。

自らが蓄えた力を少しでも社会に還元でき、自分の行動に誇りを感じられるようになった時、初めて母校の教えの意味が実感できる。その偉大さがおぼろげに見えてくるのである。 「あなたたちは恵まれている。その環境を無駄にしてはいけない。自分を磨き、力を蓄えて、いつか社会のためになる人になりなさい」。中高時代にそう諭されて、そう信じてこられたことに感謝の念を覚える名門校出身者は多い。ノブレス・オブリージュは、彼らにとっては決して綺麗事ではないのである。