コラム

「あなたのため」は呪いの言葉。「教育虐待」を知っていますか?

「あなたのため」は呪いの言葉。「教育虐待」を知っていますか?
教育ジャーナリストおおたとしまさ

「教育虐待」という言葉を知っているだろうか。「あなたのため」という大義名分のもとに親が子に行ういき過ぎた「しつけ」や「教育」のことである。長引く不況、就職難、終身雇用制度の崩壊、経済のグローバル化、変化の激しい時代など、世の中の先行きに対する不透明感の中で、子供の将来に不安を感じる親が増えている。

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監視され、罵倒され、否定され続ける日々

知佳さん(仮名)は1980年代半ば、東京都心から電車で1時間ほど離れた郊外に生まれた。若い両親だったため生活は苦しかった。学歴がないことも、両親のコンプレックスだった。「あなたはなんとしても大学に行きなさい。お父さんとお母さんのような悔しい思いはさせない」。知佳さんは幼いころからそう言われて育った。物心がついたころから、毎日ピアノの練習と勉強をさせられた。遊んだ記憶は、ほとんどない。

ピアノは夕食前に毎日約2時間。間違えると罵倒され、殴られた。ピアノより怒鳴り声がうるさいと、近所からクレームが来たこともあった。それでも母親は「嫉妬しているのよ」と言って、聞く耳を持たなかった。勉強は夕食後、毎日約4時間。夕食を食べ終わると1分も休まずに勉強を始めなければならなかった。サボらずにやっているか、10分おきに母親が進み具合をのぞきに来た。

母親は勉強を教えることができなかった。その代わり、書店で教材を山のように買ってきては知佳さんに与えた。知佳さんはそれを解き、自分で丸つけをして、母親に見せた。母親が予定していた量をこなせていないと、怒られて、夜中まで勉強をさせられた。

テストの点が悪いと殴られた。テストでいい点をとって、喜んで報告しても怒られた。「勘違いしないで。テストでいい点がとれたのはあなたの力じゃない。お母さんのおかげなのよ。わかってる?」小学校の友達と交換日記をしているのを見つかったときには、「勉強以外のことをするな」と怒鳴られ、叩かれ、その後1カ月間、無視された。

成績の悪い子と遊ぶ約束をしたときには、「あの子と遊んではいけません。あなたまでバカになる。今、この場で電話をして断りなさい」と命じられ、従うしかなかった。

スーパーでの買い物の途中、小学校の友達の母親に会い、「知佳ちゃん、この前、学校で褒められていたわよ」と言われると、とたんに上機嫌になった。

自分から知佳さんのテストの点数を自慢しはじめることもあった。常に周りの子供たちと知佳さんを比較した。テストの点数で負けたことがわかると、叱られた。小学校の友達は、母親にとっては〝娘のライバル〝だった。「塾に通うほどの経済的な余裕はありませんでした。それで、塾に通っている子供たちに負けたくないという思いが強かったのだと思います」と知佳さんは当時の母親の心境を想像する。

「私はまるで母親の所有物でした。自分の人生ではなく、母親の人生を生きていました」と知佳さんは振り返る。母親の機嫌次第で突然殴られることもあった。無視されることもあった。しかしどんなに機嫌が悪くても、食事はいつもきちんとつくってくれたし、衣服も小綺麗にしてもらっていた。「母親として、自分はきちんとやっている」というのが大前提だった。

一方、「どうせあんたはダメよ」が、母親の口癖だった。知佳さんはそれをそのまま受け取った。自分は人一倍努力をしないといけない人間なのだと思い込んでいた。学校での成績は優秀だったが、まったく自分に自信がなかった。

父親は見て見ぬふりだった。知佳さんが助けを求めると、「ごめんな。大人になるまで我慢してくれ。大人になったらお母さんの気持ちもわかるよ」と言われた。両親の仲は、悪くはなかった。中学生になると、知佳さんは自殺も考えた。しかし今思い返せば、本気で死のうとしていたわけではなかった。「どうでもいい」という感じだった。「ここで人生が終わっても、私は悔しくない」。母親が悔しがる姿を見てやりたかったのだ。

中学2年生になると、学校の勉強に加え、英語検定、漢字検定、ピアノ検定のための勉強までさせられた。完全に知佳さんのキャパシティを超えていた。体の震えが止まらなくなり、手にはいつも汗をかくようになった。頻繁にめまいもした。「今思えば、きっと、自律神経失調症だったのでしょう」と知佳さん。

不調を訴えると、母親は、知佳さんを病院に連れて行くどころか、「あんたはその程度の人間だったのね。これだけやってあげてるのに、残念よ」と吐き捨てた。このとき、知佳さんは気づいた。「この人は、きっと私のことを思って叱ってくれているんじゃない。自分のために私を叱っているだけなんだ」と。「大学を出たら、家を出よう」。それが知佳さんの目標になった。

知佳さんは、県立の進学校に進んだ。知佳さんが高校生になると、さすがに勉強のことをとやかく言うことはできなくなる。しかし母親はさらに干渉を強めた。理由が何かは忘れたが、とにかく毎日約3時間は怒鳴られた。精神的な成長に伴って親を必要としなくなっていく知佳さんを、なんとか自分の管理下にとどめたいという気持ちだったのだろう。ただし、本人の意思でそうしているのではない。無意識でそうしてしまうのだ。

志望大学を選ぶときも、知佳さんはよく考えた。あまりいい大学に合格してしまうと、母親がまた調子づいてしまう。さらに干渉を強めるかもしれない。かといって、あまりにレベルの低い大学に行くのでは怒りに触れる。母親が大喜びもしないし怒りもしない、ほどほどの大学を受けることにした。

作戦は成功した。家にいる限り、母親の罵倒から逃れることはできなかったが、受け流すことはできるようになった。就職は、中学受験塾に決まった。「中学受験は親がする受験といわれていますよね。子供の受験に命を懸けているような母親も多い。そんな母親に、『あなたの受験じゃないんだよ。子供の受験なんだよ』と伝えたかった。子供を応援して、支えてあげたかった」。知佳さんは就職活動のときの心境を教えてくれた。

「大学を卒業したら家を出る」と母親に告げた。すると母親は、「女の子が一人暮らしをするなんて、きちんとしたご家庭に育った男性とは結婚できなくなるわよ。ちゃんとした企業に勤めていい男性を探すっていう普通のことが、なぜできないの?」と知佳さんを責めた。家を出るまでの数カ月、毎日殴られた。熱いお茶やお酒を顔面にかけられることも一度や二度ではなかった。「もうすぐ、この家を出られる」。それが心の支えだった。

とうとう家を出ると、思い出をなかったことにして生きると決めた。

30歳直前で結婚した。結婚して約1年。夫が脱サラした。関西にある夫の実家の家業を継ぐためだ。知佳さんも手伝うために、中学受験塾をやめた。「そろそろ自分の人生をはじめてもいいんじゃないか」と思えた。長く、辛かった過去を乗り越えられたと思っていた。

引っ越してから生活のペースが変わった。少しのんびりできるようになった。幸せな生活だった。しかし知佳さんはなぜかイラ立っていた。温厚な夫に対し、些細な落ち度を見つけては、くってかかることが増えた。明らかに八つ当たりだった。自分でもそのことがわかった。理由なき怒り、焦りにさいなまれていた。最初は環境の変化のせいかと思っていた。

そろそろ子供をとも思ったが、なかなかできない。とうとう生理も止まってしまった。ベッドの中で、子供のころを思い出していた。ピアノを間違えて叩かれたこと、テストで悪い点数をとってさんざん罵倒されたこと、わけもなく殴られたこと……。

すると今度は、無力で、頼りなくて、小さく縮こまっている子供が、自分に助けを求めるように迫り寄ってくるイメージが見えた。

「イヤだ。こんな子供、愛せるわけがない……」

その子供こそ、知佳さんの記憶の中にずっと閉じ込められていた、かつての知佳さん自身だった。自分の中に棲み着いたもう一人の自分。届かぬ叫びを封印され、その存在すら忘れられてしまったかわいそうな子。

真夜中だったにもかかわらず、気づいたときには叫んでいた。

「子供なんていらない!」

結婚し、仕事もやめ、自分が親になることを想像しはじめたことで、知佳さんは過去の自分自身と向き合わざるを得なくなった。引っ越して環境が変わってからの理由なき怒りや焦りはそのためだった。そしてとうとうこの夜、封印していた過去の扉が、開いてしまったのだ。押し込めていた感情が一気に噴き出してしまったのだ。

知佳さんは心理カウンセリングを受け、トラウマを乗り越えた。「私は、『母親という名前の宗教』にとらわれていました。母の信条に反することをすれば天罰を受けることになると思い込んでいたのです」。知佳さんはようやく「母親という名前の宗教」を抜け出した。母親に恐怖を感じなくなった。

いき過ぎたしつけや教育は教育虐待

「教育虐待」という言葉を知っているだろうか。「あなたのため」という大義名分のもとに親が子に行ういき過ぎた「しつけ」や「教育」のことである。

どこまでがしつけや教育的指導で、どこからが教育虐待になるのか。子供シェルターを運営する弁護士に尋ねると次のような説明が返ってきた。

「しつけや教育的指導とは、子供の成長を促すために子供を励ますことです。英語で言えばエンパワーメントです。しかし虐待は人権侵害です。まるで逆です。子供は親のペットでもロボットでもブランド品でもありません。親の満足のため、もしくは親の不満のはけ口に子供を利用することは人権侵害です。子供をエンパワーメントしたいなら、子供を一人の人間として敬意を払いながら指導すべきです。子供を自分と同じ一人の人間なんだと思うことができているかどうか。それが教育的指導と虐待の違いだと思います。同じ言葉を発していてもそこが違えば、子供が受けとるメッセージも違います」

昔ほどの学歴一辺倒ではないものの、「最終的には最低でもこれくらいのレベルの大学に通わせないと……」などと、依然学歴に対する意識は高い。

さらに、長引く不況、就職難、終身雇用制度の崩壊、経済のグローバル化、変化の激しい時代など、世の中の先行きに対する不透明感の中で、子供の将来に不安を感じる親が増えている。

「英語は早くからやらせたほうがいいのか」「プログラミング教育をしておいたほうがいいのか」「海外の大学に留学をさせたほうが就職に有利なのか」など、子供が少しでも有利に世の中を渡り歩いていけるようにと、たくさんの教育機会を与えようとする。本当に必要なものがなんなのかがわからなくて不安だから、念のため、あれもこれもと子供にやらせる。だからきりがなくなる。どこまででも追いつめてしまう。

おまけに少子化できょうだいが少ない分、一人の子供にのしかかる親の期待と不安は倍増している。しかも核家族。家の中には不安とプレッシャーが渦巻いているのかもしれない。

学歴コンプレックスがあるにせよ、高学歴ルートから外れるのが怖いにせよ、人生の成功を学歴にとらわれているという意味で同じだ。コインの裏表でしかない。「学歴がないとまともな人生を送れない」という恐怖心を植え付けることで子供をコントロールしようとする。それが教育虐待の基本構造になっている。

同じように学校に通って、同じように塾に通って、同じように勉強しているはずなのに、うちの子よりもよその子のほうが成績が良かったりすると、親として悔しくなるかもしれない。「なんでだろう?」と悲しくなることもあるかもしれない。「やり方が悪いのだろうか」「どうやったらあの子よりいい成績をとらせてやることができるのだろうか」。親は思い悩み、また「頭が良くなる」系の雑誌や本を読む。しかしそれで効果が出るのなら世の中とっくに「頭がいい子」だらけになっているはずだ。勉強に王道などない。

だからといって、「うちの子には才能がない」とはならない。たとえば、プロポーション抜群のモデルが実行しているダイエット法を一般の人がまねしたところで、多少体形が良くなるくらいの効果はあってもモデルと同じプロポーションになれるわけではない。かといって、生まれながらに美しさに差があると考えなくてもいい。そのモデルにはそのモデルにしかない美しさがあり、その一般の人にはその人なりの美しさがあるはずだからだ。それらを比較しても、本来優劣はつけられない。

子供の学力も同じだ。生まれつき持っている才能が違うといえば違う。しかしそれらは、一つのモノサシで優劣をつけ、並べられるものでもない。一般的なペーパーテストの点数に象徴される「学力」とは、記憶力・思考力・表現力など、実はさまざまな個別の能力の最大公約数的な数値である。バランスがとれている子供のほうが高く出る傾向がある。逆に、どこか一部が天才的に突出していても、テストの点数には表れにくい。

テストの点数に象徴される「学力」は一つの目安にはなる。しかしそれがその子供の才能のすべてを言い表しているわけではないことは、言うまでもないだろう。マラソン選手と短距離走選手と、どちらの運動能力が高いのかと言われても、それを比べるモノサシがないのと同じだ。

であるならば、親がまずすべきことは、社会一般に用いられている最大公約数的なモノサシでわが子を測り一喜一憂することではなく、わが子の才能を最大限に評価できる独自のモノサシを持つことではないだろうか。そうすれば、よその子と比べることが、いかに無意味なことであるかがわかるはずだ。

結局のところ、親は実は無力である

以前、医師専門の人材マネジメントを業とする人物に話を聞いたことがある。彼は言った。「医師の多くは自分の意思で医師になったわけではありません。実は医師の多くは職業選択の自由が与えられなかった人たちなのです」。「あなたは大きくなったらお医者さんになりなさい」と言われ、いい学校に通い、医学部に進学した人が多いというのだ。

なんの疑いもなく、敷かれたレールの上を進んできた医師も多いだろう。一方で、本当は別にやりたいことがあったのに、諦めて医師になったという者もいるかもしれない。いずれにしても、自分で自分の人生を決定するという機会に乏しかった人たちだ。先ほどの美千代さんのように、「自分の人生を生きている実感」も乏しいかもしれない。

彼は続けて言う。「そのせいか、医師には自己肯定感が低い人がものすごく多い。そういう人は卑屈になりやすく、人付き合いが苦手です。だから医師の人事マネジメントは通常のサラリーマンのマネジメントより難しいのです。この仕事をしていると、高学歴・高収入の医師たちが必ずしも幸せであるとは言えないことが実感としてわかります」。

子供が育つうえで、もちろん親の影響力は絶大だ。しかし、あえて言いたい。結局のところ、親は実は無力であると。

親になると、子供のためにあれもしてあげようこれもしてあげようという気持ちに駆られる。しかしあれこれしたことがそのまま親の期待通りの成果をもたらすとは限らない。むしろそうならないことのほうが圧倒的に多いだろう。親の意図とはほとんど関係のないところで、子供は育っていくのである。

子供は親の思った通りは育たないが、それなりのものには必ず育つ。親がよほど余計なことをしなければ。私はそう思う。

「わが子のために」とあれこれ考えるのは親の性。それは私も否定しない。しかしだからといって、子供に期待通りの結果を望むのは親のエゴである。子供は親のために生きているわけではない。子供は親の望む人生を生きるのではない。子供が自分の力で自分の人生を切り拓いてこそ、生きている実感を味わえる。親ができることは、子供を励まし、見守ることだけだ。

それはときに非常に苦しい。つい手を出してやりたくなってしまうことも多い。だが、求められてもいないのに親が子供のやることに勝手に手を出すことは、子供に「あなたは私がいないと何もできない」というメッセージを伝えることにほかならない。

それではいつまでたっても精神的に自立できない。自分の人生を生きている実感を味わえない。代わりに生きづらさを感じながら生きることになる。自分ではない誰かのせいにしながら、誰の人生だかわからない人生を歩むことになる。

有名大学出身の親が自分と同じように子供を育てたからといって、その子が同じように有名大学に行けるわけではない。しかしだからといって、その子がその親よりも不幸な人生を歩むことになるわけでもない。世間の価値観に縛られている親よりも、よほど幸せで充実した人生を歩むかもしれない。